昭和47年1月27日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第61節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話しをしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。
神心になりてとか、真の道を踏んで行くのぞとか、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞとか、それが神になるのぞ、というような風に説いてございます。どうでも、真の道、同時に、どうでも神心というものを追求して止まぬというか、追求して行くその心が出来ませんと、教祖の教えて下さる、神になるのぞというようなおかげは到底頂けません。ですから、難しいと言やあ、難しいわけですね。
真の道を踏むと言うても、ね、やはり真の人にならなければ、真の道が分かるはずもありませんから、いわゆる、真の人とはと、真の人としてのおかげを頂かにゃん。はたして、その真の人というのが実際にあるだろうかと( )。その真の道を本当、踏んで行くということは、大変な難しいことだろうと、こう。ね。真の道じゃなくても、まあ、人間だから人間らしく生きて、人間の道を歩いて行く、と。
ところが、人間の道を歩いたんだけじゃ、やはり人間ですからね、最後まで。金光様の御信心は、どこまでもそこんところから、いわゆる、信心が分かって来る、信心が有り難くなって来るというもんでなければかならんと思うですけれども。これは、まあ、私、自分の信心を言うてもそうですけれども、神様になろうとか、真の人になろうとか、もう、全然思うていなかったですね、やはり何十年間の信心をふり返って見ましてから。ただ、御取次を頂く、お願いをする、おかげを受ける。確かにおかげを受けるんです。
ですから、もう、そこから一歩も出てなかったんです。ね。それでも私はね、あの、私が過去何十年間という信心は、そういう信心でした。いわゆる、ご利益目当ての信心でしたけれどもです、おかげを受けて参りましたけれども、まあ、そん時にはやはり、色んな修行もすりゃ、熱心に、まあ、自分のお参りをしたと思うんですけれども。しかし、それで終わっておったとしたら、信心は大したことはなかったと思いますね。ところがその、まあ、終戦、そして引き上げ。まあ、いわゆる裸一貫同様で親子の者が引き上げて帰って参りましてから、初めて目が覚めたと言うか、だから、今までの信心では駄目だという事だったんです。
まあ、相当、財産も出けて、楽になって、まあ、内地には時折、まあ、遊びにでも帰るというくらいな風にしか思うてなかった。それはしかし、どこまでも、それこそ(おたかたの)夢のようなものであった。ね。実際問題は、そんなに簡単にいわば(とんや)が下さなかった。そして、いよいよ、その現実の厳しさというものをです、見た時に、本当に世を儚んだり、または、誰彼を憎んだり、これは、その時勢、時代のせいだと、そのことを恨むとか、儚うとかといったようなものは、私の心にサラサラなかったですね。
これはやはり、おかげ信心ではあったけれども、やはり信心を頂いておったおかげだと思いますよね。ね、そして、これは、今までの信心ではいけなかったということが、一番強かったです、何十年間の。そして、なら、私は合楽に御神縁を頂いてです、おかげを頂いて下さる皆さんはです、私がそこの体験だけは、もう言うならば通って来ておるのだから、ね、皆さんとてもやはりですね、いわゆる、私は何十年、過去何十年間にして来たような信心では、いけないんだということをです、一つ本気で分かって頂いて。ね。
そこからの、一つ信心をね、共々に身に付けて行きたいと、私はこう、願い、そう、まあ、思うのでございます。私の過去の信心では駄目であった。けども、その、まあ、信心のおかげで、まあ、その世を儚むとか、世を憎むとかといったようなことはなかった。いわゆる、日頃頂きに頂いておった御教えがです、こう、少しはっきりして来たわけです。なるほど、私は教祖様が教えてござる御教えといったようなものを一ヶ条だって行じていなかったという事実です、徹底して。金光教のことは詳しくなっておった。ね。
教えなんかも、いくらも暗証しておった。知ってはおったけれども、それを自分の身の上に行じ現そうとする精進努力というものは、もう、全然していなかったことに気付かせて頂いて、いわゆる、今までの信心ではいけないぞ、ということであった。ですから、皆さんの信心もやはりそこからですね、でないと、この61節はそんなに、私は言うならば、そういう意義を持った信心だと思うですね、あの、御教えだと思うです。神心となりてとか、真の道を踏んでとか、ね、人に真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞというような、神様へのお礼ということは、神様に喜んで頂くということでしょうね。
神へのお礼というのは、神様に喜んで頂くような信心をしていなかった、ということなんです。ね。いわゆる、自分、それかと言って信心の喜びがない訳ではないけれども、まあ、それは言うならば、おかげの喜びですよね、信心をさせて頂いて。で、まさかの時には金光大神と言やあ、なるほど、何回も、もう今日は難しいかと思われるような、例えば、戦争に私どもも引き出されまして、半年あまりは軍隊生活を致しましたから、その間に何回も命を落とすような危ない目にも遭いましたけれども、やはり助けて頂いて。まあ、助けて頂いたと言わなければおれないほどしの、いわばご利益を受けて来ております。
けども、そういう例えば信心ではです、いけないことを、まあ、言うなら丸裸同様にならせて頂いた時に、初めて気が付いた。そこで私は、んなら、皆さんに丸裸になれと言ったって、出けませんしね。そりゃ、なれたらなったがいいですよ、実際。ね。けれども、そういう勿体無いこともしてはおられませんですから、なら、丸裸になるというか、白紙になるというか。
いや、そしてそこから、真の信心を本気で分からせて頂こうとする姿勢をです、作るということは、どういうことかと言うと、私は白紙になることだと思うですね。ということは、私は任せるということだと思うですね。神様にお任せするということ。ね。これはもう、合楽の前身であるところの椛目の、もう二十何年前の時代から申して来たことでございますよね。
付いて来なされこの提灯へ、決して苦労はさせませんといったような、あんな御理解を頂いとった時分。ね。何が何でも、親先生任せで行こうと、こう。ね。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと、三代金光様の御教えなんかを一生懸命に頂いておったですね、あの椛目の時代、今でも同じですけれども。氏子が神様任せになるということ。これは、いわゆる、自分の言うならば思いというものを一応は捨てなければ、神様任せになったとは言えません。神様任せになるということ。ね。
そこから助けられる道。それが本当の、私は金光道だと思うですね。例えば、言うならば目先目先のおかげをお願いをしておかげを頂くというのならです、いわゆる、決して金光道ではなくてもいいのです。ね。何々様でも、何々教でもいいのです。ね。神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、と仰る。尽きぬおかげと、限りがない。ね。いわゆる、無限の、無限供給という言葉ありますね。
無限に限りなくおかげを頂いて行けれる道を、金光大神は天地金乃神様から、そういうおかげを受けて、そういうおかげを御取次して下さる。そこで、私どもが先ず、なら、神心になってと仰るように、神心とはと、人間心ではない。ね。それを、私は今日は、任せるという風に申しております。
人間心を使うたら、もう心配で心配でたまらんごとなりますよね。人間心を使えば使うほど、心配は絶えない。ね。不思議に任せるということになりますとね、心はいつも安らいでおる、お任せしておると(言うんですから?)。だから、その、任せられるまでが、いわば、まあ、信心なんですよね。
私は今日は、実は福岡行きをさせて頂こうと思っておった。というのは、今、福岡で日本から出て行ってしまっておる浮世絵がずいぶん外国に出ております。もう、良いのはほとんど外国にしかないと言われるくらいですね。明治のあの時代に、もうそれこそ、(にそくさんもん?)でどんどん海外に、西洋の人達の方が目が高かったわけですね。そういう素晴らしいのを一同に集めて見せる、二百円ぐらいなあれで、見せるとこう言うの。岩田屋でそれをやってる。
私が、大変浮世絵が昔好きで、自分でも集めた時代もあったし、好きなことを高橋さんが知っておられますから、あの、どうでも私は、それ、もうまたと見られないこのチャンスを逃したら見られまいと思うぐらいですから、ぜひ、一遍お供しましょうて。ところが、日にちをおくところが、もう、ずうっとその、一週間かある間に日にちが詰まって、私出られないんです、色んな行じで。
ところが、今日だけは、まあ、ちょっと良かろうごとある訳です。それで、今日、連れて行って下さることになっておった。したら、あの、皆さんご承知でしょうか。お大師様の掛け軸がありますね。何かこう、岩の椅子のようなのに、こうして、前には靴のごたっとが、こう二足置いてあるですね。私は、ああいう軸を見たことがあるんですよね。それを私はね、あの、御神眼に頂いてから、あらあ、これはお大師様の軸だなあ、と思ったら、そのお大師様が私です、私の肖像です。
私がお大師様のようにして、あの、椅子の中に座ってですね、足をこうやって、下の靴につっかけようとしておるところ、椅子から(折れる?)、そのお大師さん( )ござるところを頂く。ね。はあ、私は今日、出掛けようと思うことだなと、こう思いました。ね。そして、例えばなら、あのお大師さんの掛け軸が片一方足を出してござったり、出掛けらっしゃったりしたら、もう、あの値打ちはありませんよね。
あそこに、こうやって納まってござるところに値打ちがあるのですから。はらあ、神様は、私が今日、福岡行きをしようということをです、行くなとは仰らんけれども、何とはなしに皮肉っておられるなあ、という感じが致しました。はあ、今日はお前は、福岡行きをするつもりだな、というようなことを言われたような感じがしましたのを、その次の瞬間に、はあ、今日は止めますという気持ちが起こりました。
もう、その、こりゃしもうた、もう本当に、またと見られない物を今日は見せてもらえるつもりだったのに。これは、福岡に行きゃあ、また、美味しいもんの一つぐらい、また呼ばれてよかと思いよったのに、こりゃ残念といったような思いは、もう本当にサラサラないですね。
神様が行くなと仰るわけでもなからなければ、ね、けれども、何とはなしにちょっぴりこう、私の心を引いて見て下さったような気がした時に、ああ、今日はせっかく高橋さんが計画して下さって、ああして下さって、夕べもそのために文男先生も、まあ、一緒にお供せろというようなことで、話だいたい決まっとりましたけれども。これは、今日はせっかくですけれども、今日はお断りして、福岡行きは断念しようという風に、まあ、思わせて頂いておる中にです、本当に金光様の御信心頂いてから、こういう御用をさせてもろうとるから、自分の思うようなことも出けん、外に出ることも叶わんというような思いは、おかげでさらさらありません。これは、どういうことかと言うと、いつも私が白紙でおるからではなかろうかと思うですね。
右が良いと思うておったのに、左が良いと思うておったのにというような思いは、サラサラない。けれども人間だから、なら、今日はいっちょう右にしようか、左にしようかということもあるけれども、さあ、神様が右と思うておっても、神様が左と仰りゃあ、いつでも左になれる心があるということなんです。私は、金光様の御信心はそれだ、と。
だから、どうも右に行くとか左に行くとか思うちゃならんということじゃないのです。ただ、問題はその時点でです、ね、それをそのまま、「はい」と素直に受けれれる心なんです。ね。そういう心から、私は精進の心、修行の心。そういう心で、例えば願うなら願う、祈るなら祈るで、だいたいは、なからなければならない。そこで、んなら、神様いわゆる任せ。ね。
自分の都合ようになることのということは、自分の思うようになるということではないということ。ね。おかげを受けるということは、自分の思う通りになるということでは決してないということ。ここんところをね、本当に一つ分からにゃいかんと思うです。私どもは右が良いと思うておる。ね。
けれども、神様は左の方にわざわざして下さる場合がある。ね。思う通りになったらおかげと思い、思う通りにならなかったら、おかげ頂っきらじゃったと、こう思う。そういう心では駄目である。ね。高橋ひろし先生でしたかね、有名なお言葉がありますように。御取次を頂いて起きて来たことは、みな良いと言うのである。それは、ね、自分の思う通りにならないということじゃない。御取次を頂いて起きたことは、みな良いのであり、御取次を頂かずして起きて来たことは、みな悪いと、もう、極言しておられます。
けれども、私はこれは、金光教の信心、金光道で言う真実のことだと思います。ですから、お道の信心させて頂いても、ここんところが本当にそうだと思い込めれるようになるまでが、やはり一修行だと、こう思います。御取次を頂いて起きて来たこと。いわゆる、御結界で御取次を頂いて、お願いをして起きて来ること、そのことはです、自分には都合の悪いことであっても、それは必ず結果においては良いことになるんだと信じさせてもらうということ。ね。
御取次を頂かずして起きて来ておることは、それは、また儲かった、儲かったといったような、例えば有頂天になるようなそれがことであってもです、結果においてはみな悪いということになるんだ、と思い込ませてもらう。これは、まあ、大変なその一つの理のあることなんですからね。ですから、御取次を頂いての生活でなからなければ、実を言うたら不安でたまらんというのでなからなければならん、そこまで行かなければ。自分の都合のよかことは頼むけども、都合の悪かことは我がよかごつ、と。ね。
お伺いどもしよって、こっちは右が良いと思いよるとに左が良いと言われたら、神様に背くことになるから、もう、お伺いもせんで自分の勝手なことをするというような生き方からは、生まれませんですね。日々を、やはり御取次を頂いて行く。そこには、御取次を頂いて起きて来ることはみな良いと信じさせてもらうところに、安心がある、安らぎがある。
そして、真実、なるほどおかげであることが分かる。自分の思うようになるということがです、おかげではない。ね。決して苦労はさせません、というのは、ね、いわゆる神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを頂けれる、という意味なんです。ね。人に伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、と。どうでも、私自身が真の信心を頂かせてもらわなければならん。ために、真の人にならなければならない。
それは大変に難しいことのようにある。けれども、なら、私自身がです、何十年間の、世の過去の信心を、まあ、精算してというか。ね、今までの信心ではいけなかったと分からせてもらって、そして、そんなら真の信心とはということの中からです、ね、真の信心とは、真の信心とはというところから、まあ、なるほど、様々な修行もさせてもろうた、様々な苦労もさせて頂いた。
そして、解かり得たことがです、ね、けっきょく真の道に繋がっておるんだと、私は確信を持って皆さんに聞いて頂くわけですから。ね。もとをとって道を開く者はあられぬ行をするけれどもということは、ね、その真の道にということが分からせて頂くまでは、あられぬ行もする。
けれども、現に私がここでです、ね、こういう生き方にならせて頂くということがお道の信心だと皆さんに聞いて頂いておるわけですから、そういう苦労をせんでも、また、過去何十年間の私が無駄な信心をして来たそういう事やらもです、皆さんはせんで済むおかげを頂いてもらいたい。そして、はじめから真の信心を目指してもらいたい。ね。というのが、私とこの願いなのです。
真の信心を分からせてもらう。そすと、真の信心とは(年季)がいらなければということではなくてです、ね、言うならば、ははあ、親先生任せになるということがです、まず、私自身が白紙にならなければならない。ね。そして親先生任せになって、なるほどおかげが段々頂けて来るようになり、道がついて来るようになるとです、もう、貴方は真の道にあるのであり、真の信心を目指させて頂いておるのであるから、もう、それをそのまま、人に伝えて行くことが出ける、と。ね。
私が、なら過去何十年間の信心の状態であったら、それは真の信心でも、真の道でもなかったから、人に伝えるということも、いわば出けなかったということになりますけれども。ね。とにかく、私どもが一つ、本気で白紙にならせてもらって、ね。けっきょく、真の道とは、ね、神様任せの道だということにもなります。ね。ですから、そういう生き方にならせられたところに、いわば、私どもは真の道にあるわけですから。それを、精進に精進を重ねて、真の人を目指して行くわけです、真の道をいよいよ辿らせて頂く訳です。
ね、そこに尽きぬおかげの頂けれる基礎というか、土台が出けて来る。段々、けいこさせて頂いておるおかげで、今日はたまたま、福岡に自分( )、ああ、もう自分の好きな、またと機会がないだろうというような、例えば今日はお誘いを受けておるのだけれども、ね、神様からそうしたヒントを頂いたんですから、ね、本当に真の道とは辛いもんだな、自分の行こうと思うとこにも行かれんといったようなのじゃなくて、間違おうとするところを、そうして、ちょっとこう、気付けて下さって、真の道から反れんようにして下さる。その御神意、御神恩こそ有り難いと感じさせてもろうて。
行かれないということに一つのこだわりも、ね、困ったとも、難儀とも感じない。そのことを有り難いとこう思わせて頂けれる。ね。それを、例えば願えばね、無理に願えば神様は行くなとも仰らなきゃ、神様じゃ決してないけれども。ね。それが、いつも白紙になっとらなければ出けません。
親先生任せと言い、ね、御取次を頂いてと言うておりますけれども、心の中には行きたいがいっぱいで、例えば御神意をお伺いをする、御取次を願うというようなことではです、ね、今日は行かんがよかと言われると、そうですかち言うちから、(嫌のような??)顔をするですねみんなが。
もう、そこんところがスッキリ出けるために、いよいよです、ね、私どもは白紙になるけいこを先ずさせてもらう。真の信心の、私は入り口はそこだと、こう思う。ね。色んな、例えば悩みも苦しみも、ね、御取次を願うということは、御取次にお預けする、御結界にお預けするというな気持ちでです、ね、いわゆる、任せた安らぎを持って、信心生活をさせてもらう。
そして、そこに起きて来る右とか左とかというのはです、いわゆる、もう貴方任せである。こうなるように、こうならなければおかげではないのではなくて、御取次を頂いて起きて来ること、ね。その全てが良いのであり、御取次を頂かずして起きて来ることは、ね、良いことでも悪いことでも、全てが悪いというようなことが実感として分からせて頂く信心にならなければならん。
今日は、真の人とか、真の道とか、または、神心となりてというようなことがです、大変これは難しいこととして説かれて参りましたけれども、今日は私どもが頂いた御理解は、ね、私どもが白紙になる。そのことを、もう、本当に親先生任せになるという、そのことがです、私はもう、真の道だ、と。
その任せれる、その心がもう真の人だ、と。また、そういう心の状態でお話をすることは、もう、すでに神心だと、まあ、いう風に聞いて頂いたんですけどね。してみると、神心にならなければ、真の人にならなければ、真の道によらなければ神様へのお礼は出けん、人に話して行くことすらも出けんというように、大変難しゅう考えなくてもですね、私が過去何十年間踏んできたようなものではなくて、私が、ね、内地に引き上げて帰って来て、過去の信心がいけなかったと悟らせて頂いた。こちらの信心は、それなんです。
とにかく、神様任せでの生き方というものを身に付けさせて頂いて、その、例えば生き方を具体的に致しましたのが、成り行きを大事にして行くという生き方でしたね。そういう、例えば、けいこをさせて頂きながらです、ね、言うならば、見やすう真の道を歩かせてもらう、見やすう神心とは、そういう心から生まれて来る心であるということ。そういうけいこをして行く内にです、自分の心の中に、なら、今日私がお知らせを頂いて体験させて頂いておるような、今日の福岡行きの問題。ね。
行きたいと思うとった。けれども、神様が行かん方が良いぞというように、ちょっとこう、そういうヒントを与えてくれただけで、私の心の中には、もう、それこそ雲一点、曇りのない心でそれを承れれる心が頂けておる。そういう心を白紙だというように、聞いて頂いたわけですね。どうぞ。